当記事では1945年に看護要員の集団として結成され、その多くが戦争により犠牲となった「ひめゆり学徒隊」を祀るために建てられたひめゆりの塔の入場料金、施設情報、歴史などをご紹介しています。
戦争の悲惨さを知る場所として、修学旅行でもよく訪れられているこの場所は一体どういった場所なのかをごらん下さい。
ひめゆりの塔の歴史?何のために建てられた?
1945年3月24日に教師、生徒合わせて240名。看護要員として結成された”ひめゆり学徒隊”。
その結成のすぐ後に始まった沖縄戦で半数以上の136名が犠牲となりました。
その犠牲者を祀るために学徒の遺族らによって建てられたのがこのひめゆりの塔です。
ここには毎年60万人もの方々が慰霊、観光など目的で訪れています。
戦争の悲惨さや愚かさ、命の尊さを学ぶ場として修学旅行で訪れることが多いひめゆりの塔ですが、塔という名前にしては大きな塔が建てられているわけではなく、学生達にとっては「なぜここにくる必要があるのか?」と感じる方も多いかもしれません。
ただ歴史の背景を知ることで「自分たちと同い年ぐらいの学徒隊の方々が、戦争で命を落とした。」ということが伝われば、修学旅行でここを訪れる意味も伝わることでしょう。
ひめゆり学徒隊とは?
ひめゆり学徒隊の名前の由来は花の「ひめゆり」からきているのではありません。
当時、沖縄県立第一高等女学校を「乙姫」、沖縄模範学校女子部を「白百合」と名付けられていて、その2つの名前を合わせて「姫百合」と名付け、ひらがなで「ひめゆり」と使うようになったのが名前の由来。
ただ兵士達にとっては生徒の所属校がどこであるかは問題にならず、実際にはひめゆり学徒隊という呼び名はほとんど用いられることがなかったとのことです。
慰霊塔の前の穴はなに?
慰霊塔の前には大きな穴がありますが、これは沖縄陸軍病院第三外科壕跡です。
この大きな穴(壕)には当時ひめゆり学徒を含む100名ほどが身を隠していたと言われています。
ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆりの塔と同じ敷地にある「ひめゆり平和祈念資料館」では、沖縄戦がどういったものであったかをひめゆり学徒隊の体験を通して、戦争の実態を伝えています。
”どのようにして戦争が始まったのか、戦時中の暮らしは?”など戦争がどういうものであったのかがわかる資料や、当時の医療器具や当時の学生が身につけていたもの、病院壕のジオラマなども展示されています。
またひめゆり学徒隊の生存者の方が証言員として説明してくださることもあって、戦争を実際に体験した方の口からより真実に近い戦争の実態を学ぶことが出来ます。
ひめゆりの塔 施設情報(入場料金/駐車場等)
こちらは「ひめゆりの塔」の施設情報まとめです。
ひめゆりの塔 那覇空港からへのアクセス
ここでは「ひめゆりの塔」へのアクセス方法をご紹介しています。
レンタカーを利用
バスを利用
タクシーを利用
ひめゆりの塔 周辺地図
こちらは「ひめゆりの塔」の周辺地図です。
ひめゆりの塔巡りまとめ
- ひめゆりの塔は沖縄戦当時の悲惨さや命の尊さを学ぶことができる場所。
- 沖縄の明るい観光地のイメージとは正反対の場所ですが、沖縄の歴史を学ぶことのできる貴重な場所ですので興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。
コメント
ひめゆりの塔のおばさん
うざい